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一个很好来自北京的中国朋友现在住在日本的东京生活,工作。她先只想上语言学校学习日语。 但她到现在为止住了15年了! 我很感谢她愿意用非常流利的日语给我们介绍她在日本的生活:

日本に来て、早15年になりました。最初は2年間の語学留学のつもりでしたが、日本語学校に入って、大学に進学、気楽な学生生活に慣れて、そのまま、博士課程まで進み、5年前まで、まったく緊張感のない暮らしをしてきました。2004年、博士課程を終了と同時に日本の投資顧問会社に就職し、現在、日々株価と奮闘しています。

日本語学校編
人生の中で一番忘れたい2年間でした。日本に強い憧れを抱いて、ウキウキ気分で東京の地を踏
みました。最初の家は日本語学校の寮で、和室6畳の1Kでした。実に古い畳で、砂壁、くもりガラス、あまりのショックで、来日の初日で夢が幻滅しました。姉も一緒に居たので、泣くほど事はなかったが、ブルーな日々が長く続きました。
幸いな事に、日本語学校の校長先生とは昔から知り合いの事で、いろい
ろと便益を図っていただきました。アルバイドも事前に用意してくださって、仕事の内容はウェトレスですが、びっくりするほど暇な店で、その上、時給が高い、同僚達もすごく親切に接してくださって、今でも感謝しています。他のクラスメイトと比べれば、間違いなく恵まれていた方です。アルバイド先でいじめられるような話は毎日のように耳にします、最悪のは、アルバイドが見つからないことです。途中で学校に来なくなって、いわゆる不法滞在に転落したクラスメイトも居ました。私個人的には、一番つらいのは当時の立場です。やっぱり、日本人から見れば、ド田舎から出てきた出稼ぎ者(民工)で、無礼で貧乏で、下流の生き物です。そういう目で見られるのは辛くて、でも耐える事しかできなくて、最悪の日々でした。

大学編
高校を卒業して、日本に来たので、やっぱり大学に入りたいものです。正直言って、日本の大学に入るのはさほど苦労しませんでした。どの大学はどのレベルなのかも分からないまま、日本語学校の先生の言われたままに、2つほど受けてみて、そのうちの中央大学に決めました。超一流ではないですが、そこそこ胸を張って名乗れる学校です。大学は私の第一の転機でした。出稼ぎの名を払拭するのに大学が不可欠でした。お皿を運んで生活費を稼ぐより、奨学金で生活したい一心で必死に勉強しました。サイクルとかにも入らず、中国人の友達も作らずに、徹夜もするほど勉強しました。その努力が実り、2年生からず~と奨学金をもらえて、割と楽な生活を送れるようになりました。大学院生になると、月24万円ほどもらえて、やっと日本人の同世代の子と同じレベルの生活ができるようになり、やっと人間らしく正々堂々と生きるようになりました。

仕事編
大学院の居心地が良くて、そのまま大学に居残って、研究員でもなろうかと思っていました。偶然に知り合いから仕事の話をいただき、気楽に面接を受けたら、翌日に就職が決まり、まったく準備なく、いきなり社会人になりました。日本の面白さを知り始めたのはこの頃かな。仕事は勿論大変でした、知らないことがばっかりで、10年間も学校を通い、経済学博士課程終了の名が泣けます。最初の仕事はファンドマネジャーのアシスタントでしたが、データ収集や、簡単の企業レポートを書くくらいで、会社に何か貢献できたかどうか不明ですが、自分ためにいい勉強になったのは間違いないです。アルバイドとも、奨学金とも違う、社会人として初めてお給料をいただいた時の喜びが大きかったです。と同時に危機感と焦りが沸いてきました。学生の頃は、学生という身分に甘えて、社会の地位が無くても、貧乏でも危機感が丸でなかったです。しかし、社会人となれば、そうは行きません、特に金融業界において、同じ30代でも給与の格差の極めて大きい。
私の人生の大2の転機は今の会社の社長と出会ったことです。2004年に今の社長は独立して、小さいながら投資顧問会社を設立しました。光栄にも声を掛けてくださって、私はそこの社員となりました。前の会社は運用会社ではあるが、私の仕事が企業リサーチで、直接に株に触れる事はなかったです。今の会社は、株のそのものと言っても過言ではない。2004年8月から2006年6月まで、うなぎ上りの相場も経験しましたが、その以後の異常な下げ相場も体験しました。どれも初体験で、驚きの日々です。2年前のバブル相場の時に今の社長のお陰で実にいい思いしたのは事実で、それを忘れられなくて、今頑張っていられるでしょう。私は始めて買った株は住友石炭で当時109円、131円で売却した記憶があります。最初に買った新日鉄は250円で、その後2007年7月31 日に964円を記録して、今は319円。多くの銘柄は私が株を始めた2004年の水準に戻りました。今は4年前の素直な気持ち(前向きで、欲張らずで)に戻って、一から再スタートと自分に言い聞かせています。

日常生活編
私は自分が中国人であることは一度も恥じることはないですが、でも日本という国が大好きです。だから15年も住み続けていると思います。恐らく後10年も 20年もこの国で暮らすでしょう。空気がきれいで、お水、お米がおいしくて、国民が礼儀正しく、サービスも丁寧で、最高な国です。近年、貧富の格差の拡大や、治安の悪化などで世間が騒いでいますが、それも、自己責任の世界で、私はさほど気にしていません。確かに、中下階層にとっては生活しにくい国ではありますが、努力した分満喫できる国でもあります。今の自分の生活には満足していませんが、15年前は自分がここまで辿り着けるとは想像もできませんでした。一歩一歩、今日を大切に丁寧に生きていればきっと報われる日が来ると私が信じています。
ちなみに、今の生活は、朝6時に起きて、7時過ぎに家を出て、通勤は地下鉄を利用しています。8時前に会社に着いて、新聞を読んで、発表された企業の業績を入力して、あっという間に9時になります。15時まで、株価ボードと睨めっこ、興奮して盛り上げる時もあれば、暗く沈んでしまう時もあります。ストレスの溜まる仕事です。家の帰るのは6時過ぎかな、日本の会社の中では早い方です、わが社の社長は寛大で、社員達が恵まれています。夕食は友達と一緒に食べるのは多いですね、私はお酒が飲まないので、本当にお食事だけになってしまうです、友達にすれば、付き合いの悪い人でしょうね。家についたら、まず、お風呂です、平均でも30~40分湯船に浸かります、中国人なのに、日本人らしい習慣です。後はDVDをゆっくり鑑賞するぐらいかな、100%のindoor派です。土日、会社はお休みです、たまに会社の人達とゴルフに出かけたりしますが、家に居るケースは圧倒的に多いです。自分の時間を大事にするタイプなので、一人で居ても全然退屈しません。やっぱりつまらない女かな(苦笑)

纏まりの無い文章ですが、考えずにだらだらと書いてみました。

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